以下、ストーリーの核心に触れているため、ネタバレ注意です。
あらすじ
若いカップルのジェマとトムは新居を探すため不動産屋を訪れる。風変わりな営業マン マーティンの勧めで新興住宅地ヨンダーを見学する。ふたりは帰ろうとするがマーティンは姿を消す。車を運転しつつ出口を探すが、同じところを行ったり来たりするだけでいっこうに外に出られない。途方に暮れた彼らは家に住み始めるが、ある日赤ん坊が届けられる。「この子を育てれば解放する」とのメッセージが添えられているが・・・これ以降、ふたりは奇妙なできごとに見舞われ続ける。
キャスト
- ジェマ:イモージェン・プーツ
- トム:ジェシー・アイゼンバーグ
- マーティン:ジョナサン・アリス
- 少年:セナン・ジェニングス
社会からの押し付けに苦しむ若者たち
2022年12月、日本財団が17~19歳の1000人に行った意識調査によれば、「将来子どもをもたないと思う」と回答したのは全体の23%だったとのこと。
子どもをもたない理由として、経済的な負担が挙げられる。独身もしくは夫婦のみではやっていけるが、子どもをもつとなると金銭的に苦労する、充分な教育を受けさせてやれないといった不安だ。
こういった意識に対して、いつも唱えられる「意見」がある。「大丈夫だよ。産めばなんとかなる」というものだ。自身の成功体験(※成功の定義は人それぞれ)を基にしているところ、おそらく現役の子育て世代または育て終わった世代から出てくる言葉だろう。
しかしこの意見の説得力もすでに失われた。今の若者には響かない。ところが今もなおこういった旧い考えが生き残っているのも事実だ。
本作のカップル ジェマとトムは、古い世代(親世代)が押し付けるプレッシャーと固定観念によって型にはめられ、自分を失っていく若者の写し鏡だ。
冒頭、ジェマは幼稚園の教諭、トムは庭師だと描かれる。これは伝統的な性別役割理論にぴったりの職業だ。ジェマは母性を発揮し、おそらく子どもが好きだろう。一方トムは額に汗して働く肉体労働者。いかにも男性的だ。実のところ、彼らは法的には婚姻しておらず、まだ子どもをもつ気はない。年齢は20代半ば~30歳といったところか。
頭の古い人たちならば、「責任も負わず気楽だ」「いい歳なんだからそろそろ落ち着けばいいのに」と言いたげだろう。
ジェマとトムが住宅展示場へ向かう間、カーステレオから流れてくる音楽が印象的だ。「ルーディたちへのメッセージ」(A Message to You Rudy) ジャマイカ系イギリス人のダンディ・リヴィングストンが1967年に発表した曲。歌詞は不良少年たちに、将来を考えろ、正しい生き方をしろ、と諫める内容だ。
彼らは楽しげにこの曲を口ずさむ。しかし社会が彼らふたりに求める「正しい生き方」とは一体どんなものだろうか。
子育てと解放
住宅地から脱出できなくなった彼らは、文字どおり子どもを育てることを押し付けられる。理解不能でまったく喜ばしくない状況だが、子どもを育てれば解放されるとのメッセージを頼りに、食事を与えるなどの最低限の養育は行う。
超短期間で成長したり、奇声を発して食事を求める子どもだが、いつしかジェマには母性が目覚めてくる。他方、トムは庭を掘れば出口が見つかるのではないかという考えに憑りつかれ、四六時中穴掘りに没頭する。
この姿は一種の性別役割理論を表す。いわゆるワンオペ育児×不在の夫である。
閉じ込められたふたりは次のように変化する。否応なく母性を求められるジェマ。ジェマをないがしろにし、子どもに暴力をふるうトムは、封建的で攻撃的な父性の象徴だ。冒頭の彼らはこんな風ではなかった。ふたりとも多少子どもっぽく、ジェマは車の運転の任されるなど現代風のカップルという様子だった。
Yonderという住宅地自体が、従来の価値観を秘めた強い磁場を発している。ここに取り込まれたものは誰であれ、旧世代のライフスタイルを押し付けられる。「新興」住宅街とはまことに皮肉な表現だ。
子どもは(見かけ上は)大人になった。「そろそろ解放か」とつぶやく。
従来、子育てが終わった親は心休まるひとときを得られた。夫婦ふたりで贅沢しなければ、貯金と年金が当てにできる。フルタイムでなくやりたい仕事を生きがいとしてやる。いまやこんな希望はもはや幻だ。不況のせいで子どもの就職はままならない。自分が生きていくだけで精一杯で、両親に仕送りする余裕もない。親の方の貯蓄もこころもとない。年金支給年齢は上げられ、それまでは非正規労働で耐えしのばなくてはならない。
解放などされないのである。
ジェマとトムは一見若い姿であるのに、生気を失い、ある日息を引き取る。これはまさに老衰だ。彼らは押し付けられた社会的「義務」を終えると同時にお払い箱にされた。死体袋に入れられた彼らは、誰にもかえりみられず、まるで産業廃棄物のように処分される。
これは今ここにあるディストピアだ。映画の舞台はイギリスかアイルランドと思われるが、この事態は先進国であまねくで起こっている。もちろん日本も例外ではない。使い潰された若者がシニア世代になるころ、年長者として尊敬を受けるどころか、邪魔者として社会的に排除される暗黒の時代を予感させる。
見る/まねる/学ぶ
この映画では「見る」/「まねる」/「学ぶ」という行為が象徴的に描かれている。
セックスをドアの隙間から見る子ども。
木のまねをする幼稚園児、犬の鳴きまねをする子ども。
なにか新しいことを学ぶには、それをよく観察し、まずはまねてみる、といったプロセスをとるものだ。最初はまねでもよいから、身体を動かし実際にやってみることで、その行為のもつ意味に気づく。それが重なることで次第に内面化され、学習につながる。
しかし劇中の子どもはさまざまな真似をするが、その本質は学んでいないようだ。
なぜならYonderの世界では、形をまねているだけで実体のないものがしばしば存在するからだ。たとえば大量生産されたような雲、見かけは完璧だが味のないイチゴやワイン。
おそらく子どもは、犬のマネやダンスの振り付けをするだけで、その意味や喚起される感情といったものを伴っていないのだろう。無感情でするダンス、なんと不気味だろうか。
子どもが夢(睡眠中に見る方の)を見たことがないと言うのも示唆的だ。要するに彼の頭の中は感情や意味を排した空っぽの状態なのだ。