あらすじ
モデルのカールとヤヤは、ファッション業界に身を置きながらもお互いに温度差を感じていた。スーパーモデルとして活躍するヤヤに対して、カールは経済的にも精神的にも引け目を感じていた。ある日2人は世界各国のセレブが集う豪華客船のクルージングに参加する。航海は順調にいくように見えたが、嵐に巻き込まれ、自暴自棄な船長のもと船内は大混乱に陥る。ついには海賊の襲撃によって船は沈没する。生き残った人たちは孤島に漂着するが、サバイバル能力をもつ乗務員と無力でなにもできない乗客の間で地位が逆転する。
キャスト
- カール :ハリス・ディキンソン
- ヤヤ :チャールビ・ディーン
- アビゲイル:ドリー・デ・レオン
- トーマス・スミス船長:ウディ・ハレルソン
- ディミトリー:ズラッコ・ブリッチ
- ヴィラ:サニーイー・ベルズ
- ヨルマ・ビョルクマン:ヘンリック・ドーシン
- リュドミラ:キャロライナ・ギリング
ヨット内のヒエラルキーと音楽
一般に社会階層というものは、上流階級・中流階級・下級階級の3段階に分かれる。現代資本主義社会においては、その区分は経済力にほぼ依拠する。
ヨット内に当てはめると、上流=乗客、中流=船長や航海士の専門職、下流=客をもてなすクルーたち、さらに下位下級層として掃除や調理、設備管理を担う肉体労働者たちが該当する。
作中では視覚的に彼らの所属階級が示されている。
たとえば上流層の乗客たちはデッキで日光浴を楽しみ、彼らの客室は船の上階に位置する。
正反対に下級になればなるほどその居住スペースは船底に近く、狭くて不快だ。おそらく第三世界からの移民であろう掃除婦たちはタコ部屋のような居室に詰め込まれ、メカニックは常に機械室で騒音と油に紛れている。彼らは「優雅で快適なクルーズ」のイメージを守るために、常に透明人間でなければならない。
彼らの上位に位置するサービスクルーたちは、感情労働によるストレスと引き換えに、少しでも多くのチップにあずかろうと乗客への奉仕に躍起だ。
中間層である船長は乗客と同じテーブルにつく。このディナーパーティから物語は急転直下、暗転する。
劇中の音楽に注目してみよう。
デッキでくつろぐシーンではDes’reeの「ライフ」がかかっている。90年代、日本のドラマで起用された曲だ。
富裕層は日々の労働から解放され、自分のライフについてたっぷりと考えることができる。
古代ギリシャでは成人男性は奴隷に労働をさせることで余暇時間を獲得し、政治参加と思索に時間を費やすことが美徳とされた。日本を含む農耕社会においては農地と生産手段を握った者が有力者となり、その余暇時間で領域の支配に頭をひねることができた。
つまり持てる者ほど時間を支配し、さらなるリソースを再生産に費やせる。
一方、船内の中流・下流クラスの部屋ではインターナショナルが鳴り響く。いわずもがな革命歌だ。また大混乱のディナー会場を後片づけする掃除婦は低音の響くインストゥルメンタルを聴く。思わず身体が動き出すようなリズムだ。これは彼女らが行う肉体労働-身体性を表す。
描かれるさまざまな「逆転」
嵐のディナーシーンで船内の状況は逆転する。しかしこれを予兆するシーンは前からあった。
ロシア人富豪の妻の思いつきで、全クルーが海に飛び込む余興をやらされる。本来、隠されていた下層階級の人々までデッキに上がり、海に入らされる。地位の流動が始まった。
本作は食事中の鑑賞はおすすめできない。なぜなら怒涛の嘔吐・糞尿のシーンがあるからだ。
大しけのなかで催されたディナーでは、船酔いした出席者がつぎつぎと嘔吐する。私見だが、女優の嘔吐シーンをその吐しゃ物を吐き出す姿まで映すのは名作映画の証だ(「おとなのけんか」、「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」を参照してほしい)。
また水平を失った船内ではトイレからは糞尿が逆流し、廊下にあふれ出す。
嵐でぐらぐらと不安定になる船、そして逆流、これは今まで安住していた立場からの逆転を意味する。
誰が革命を起こすのか
この逆転が革命と呼べるのなら、誰が革命を起こしたのか?
まずは船長だろう。飲酒問題のある船長は嵐の中でなんら指示を出さず、すべてされるがままであった。歴史的に見てみると、名だたる革命を指導したのは、最下層の民衆ではなく中産階級である。フランス革命では商工業で身を立てた新興ブルジョワジー、ロシア革命の指導者レーニンは中流階級出のインテリだった。その点で中流に位置する船長がこの逆転の原因となったのは、史実の例にもれずといったところだろうか。
しかしこの混乱に乗じて、最終的に逆転を生み出した(=無人島に舞台を移す)のは海賊だった。彼らは既存のトライアングル(ヒエラルキー)に属さないアウトカーストである。
現代の先進国家においては内乱によって既存の社会秩序を転覆させるのは難しい。もし可能であるならば外患(たとえば他国の侵入)であろう。そういう意味で海賊はカオス状況に闖入する外的要因なのである。
コロナは革命を促進するか?
コロナ状況下あるいはアフターコロナに作られた映画を考える場合、その作品がもつ世界観にコロナがどのような影響を与えたかを考える必要がある。
つまりコロナは本作で描く社会構造の逆転を促すのか?つまり海賊=コロナとみなせるのか、という問題であるが、答えはおそらくノーであろう。
コロナ禍の世界各国の状況を見ればわかるように、コロナ拡大は各国の権力をますます強力にさせた。まずグローバルな人・モノ・サービスの移動が止まることで、人はその居住国への依存度が高まるさらに国家が感染抑止の目的で自国民の行動管理の度合いが増す。2000年代から留まることをしらなかったグローバリゼーションがはじめて停滞する。
ヨットクルーズもコロナ下では停止を余儀なくされた。クルーズ産業に従事していた労働者は仕事を失い、辛酸をなめる。一方で資産に余裕がある富裕層は嵐が通り過ごすまで待つのである。
無人島生活は超自己責任社会を表す
現代資本主義社会においては、高い利益率を誇る企業の経営者やNBAのトッププレーヤーは高い収入と評価を得る。それはひとえに社会がそのようなパフォーマンスを発揮することを良しとし、それを得るためのインフラを整えているからである。つまり企業経営を評価するさまざまな数値的指標があり、企業の価値が金銭で測られる。プロスポーツ産業が確立し、そこでの年俸制度や広告収入システム基盤がすでにできている。
反対に、たとえば食べられる野草を見つける能力はあまりカネにならないし、社会的な称賛も受けない。
社会的に成功するには本人の努力だけでなく、何に価値をおくかという評価のインフラが必要である。(このあたりはマイケル・サンデルの著作を参照)
無人島のシークエンスは社会階層の逆転というよりはむしろ社会的価値の突然変異といった方がふさわしい。
だからビジネスの才覚のあった富裕層はなんの役にもたたない(なぜなら取引対象のモノが存在せず、自分自身で手に入れなければならないから)。反対にサバイバル能力に長けた掃除婦アビゲイルはキャプテンの座をつかむ。
これは超能力主義社会・超自己責任社会のディストピアだ。生き抜く能力がなければ死ぬ、を地でいく原始的社会だ。
なお、いきすぎた資本主義が指摘される現在、階層の逆転フェーズなど経なくても能力主義化は確実に進んでいる。