はじめに
~おことわり~
この記事にはヒーローユニバース映画の解説に多く見られる多作品との関連性や小ネタに焦点を当てたものではありません。
前作シャザムを観たのも4年前の話で、なにぶん記憶が怪しいですがどうぞお付き合いください。
2023年 アメリカ デヴィッド・F・サンドバーグ監督作品
あらすじ
魔術師から神々シャザムの力を授けられたビリー・バットソンとその仲間たちは、ヒーローとして人々を救い、フィラデルフィアの平和を守っていた。ある日、魔力を取り戻したアトラス神の娘達が現れ、奪われた神々の力を取り戻そうと地球へと来襲する。
キャスト
シャザム:ザカリー・リーヴァイ
ビリー・バットソン:アッシャー・エンジェル
フレディ・フリーマン:ジャック・ディラン・グレイザー
アンテア:レイチェル・ゼグラー
スーパーフレディ:アダム・ブロディ
スーパーユージーン:ロス・バトラー
スーパーダーラ:ミーガン・グッド
スーパーペドロ:D・J・コトローナ
メアリー・ブロムフィールド/スーパーメアリー:グレイス・キャロライン・カリー
カリプソ:ルーシー・リュー
魔術師:ジャイモン・フンスー
ヘスペラ:ヘレン・ミレン
弟子は訳も分からず師匠についていく【ジュブナイル物語の定型】
前作から引き続き、本シリーズは一貫して「少年少女の成熟」を描く物語である。
前作冒頭、怪しげな魔術師からSHAZAMの言葉を唱えさせられたビリーはスーパーパワーを得る。
この意味も分からず師匠の言葉に従う弟子というのは、教育の本質であり、数多くのジュブナイル映画の導入に見られる。
たとえばベスト・キッドを連想してほしい。空手を教えてもらおうと期待するダニエルは、毎日ペンキ塗りや車のワックスがけをするようミヤギから言いつけられる。
こんなこと意味がないと匙を投げるダニエルにミヤギが空手の組み手を仕掛けると、今までの雑用の動作はすべてぴったり空手の型に通じるのであった。
またロードオブザリングを思い起こしてほしい。わけもわからぬフロドにガンダルフは滅びの山に指輪を捨てさせるよう有無を言わさず仕向ける。
そこに共通するのは、弟子がこうやりたいというのではなく、学びと成長の到達点を知っている師が一見なんら説明なしに(というより強引)に弟子の修行を進めるのである。
シャザムもこの定型をなぞっている。
前作はビリーの成長物語であり、養父母と義兄弟たちを家族と認めたことで彼のアイデンティティが確立されてように見えた。
さて続編でも成熟の物語は続くが、今回はスーパーヒーローとしての自分がもつ悩み、そして他の仲間たちの姿を通して成長が描かれる。
成熟の条件~自己犠牲と贈与~
では、どうすれば人は成熟できるのか?
そのキーワードが自立・自己犠牲・贈与である。
ビリーはヒーロー活動は全員で行うものと他の兄弟を束縛していた。それは自分自身の自立を阻むと同時に仲間のチャンスも奪うものである。
仲間を信じることで各々が精神的に自立することができた。またカリプソから街を守るために自分を犠牲にした。そもそもスーパーパワーを独り占めせず義兄弟に分け与えたのは、他者への信頼に基づく贈与である(贈与論を描いた映画としてペイ・フォワードをぜひ観てほしい)。
前作がビリーの成長譚であるのに対し、本作はフレディにも焦点を当てている。生身の身体でいじめっこに立ち向かうのは自己犠牲にほかならない。
「フィラデルフィアの恥」と揶揄されていた彼らであったが、終盤身を挺して街を守る姿を見て市民は彼らをヒーローとして認めた。
これは顔の見えない不特定多数の人々とつながるネット社会に対置される、顔の見える地域コミュニティでの承認を意味する。地に足が着く形でのアイデンティティの確立である。
大人の外見と子どもの中身、あるいは子どもの外見と大人の中身
知っての通り、シャザムの呪文を唱えると大人の姿になり、スーパーパワーを得る。
しかし中身は子どものままである。
大人の外見と子どもの中身、一般的にわたしたちの社会ではこれを「大人」と呼ぶ。しかしその言葉の前には「大人げない」や「幼稚な」、「未熟な」といった形容詞が冠せられる。結局は外見が主で中身が従なのである。
では反対に子どもの外見と大人の中身はどうだろうか?
これは3姉妹の三女アンテア(アン)の姿と重なる。彼女はティーンエイジャーの外見ながら、6000年以上も生き続けているのである。
彼女の姉であるカリプソはまた、大人の外見と子どもの中身を表している。復讐にかられて我を忘れる、恨みのあまり人類を滅ぼそうと”大人げない”行動をとる。
SNS社会における自己~複数のペルソナをもつこと~
映画の中にSNSが出てくるようになって久しい。
たとえばこんなふうに考えられないだろうか—–SHAZAMの呪文はSNSの世界に入るためのログインパスワードのようなものではないか。
主人公たちはこの呪文を唱えることで姿を変え、また元に戻る。まるでログインとログオフである。
SNSの中では普段の自分ではない誰かになることだってできる。いつもならしない発言だってするだろうし、他人の注目をかうためなら馬鹿なことだってするだろう。自分をよく見せたいし、ネット上ならそれもできる。つまり全能感をいだける。
冒頭、ビリーがフロイトの精神分析よろしく「自分は詐欺師のようだ」と医者に吐露する場面がある。つまり現実の自分と変身後(≒SNSにおける自分)とのギャップに悩んでいるのである。
これはSNSにどっぷりつかった現代人なら共通の悩みではないだろうか。しかしこのギャップに苦しむならまだマシなほうで、SNS重症患者は現実の自分が思い出せずにもう悩むこともなくなるのだろう。
本作では終盤、力を奪われた仲間たちは普通の人間としてそれぞれ活躍する。それはSNSで自分を着飾らなくても、リアルな自分で外界に働きかけができるというメッセージである。
カオスを引き起こす能力とは?
本作のヴィラン カリプソはカオスを引き起こす能力をもつ。
冒頭の博物館襲撃のシーンでは耳元でなにか囁くことで人を狂暴化させるし、異常を見抜いた教師を自死させた。
これは近年のアメリカ社会に巣くうフェイクニュースや陰謀論のメタファーであろう。
ネットの中でフェイクニュースは容易に伝播し、それは博物館内の大殺戮のような現実変性力をもつ。アメリカ議会襲撃事件を思い出してほしい。