以下、ネタバレ注意です。
あらすじ
19世紀半ばのルイジアナ州のプランテーションを舞台にする。ウォーレンとハモンドのマクスウェル父子は、多数の奴隷を働かせながら農園経営をしていた。父のウォーレンの夢は、たくましい黒人血統「マンディンゴ」を繁殖させること。農園にいるマンディンゴの娘ビッグ・パールとつがわせるため、男のマンディンゴを探し求めていた。リウマチに苦しむ父に代わり、ハモンドが奴隷農場を切り回していた。ある日、ニューオリンズに出かけたハモンドは優れたマンディンゴ ミードを購入する。さらに旧友の妹ブランチと結婚したハモンドは意気揚々と故郷に戻ってくる。前途洋々と思われあマクスウェル家だが、家名没落の運命が待っていた。
1975年 アメリカ リチャード・フライシャー監督作品
キャスト
- ウォーレン:ジェームズ・メイソン
- ハモンド:ペリー・キング
- ブランチ:スーザン・ジョージ
- メム:リチャード・ウォード
- エレン:ブレンダ・サイクス
- ミード:ケン・ノートン
【不純な白人/純粋な黒人】倒錯した差別構造
父ウォーレンは純血種「マンディンゴ」を手に入れ、繁殖させることに心を奪われている。それは経済的な目的ではなく、マクスウェル家の欠落した部分を埋め合わせるための代替物なのである。
まずウォーレンは農園の家長だが、妻を失ってから長らく男やもめとして生きている。また持病のリウマチと老いのため、実質的に経営からは身を引いている。
一方、息子のハモンドはハンサムだが、幼少期の落馬の後遺症でいつも脚を引きずっている。彼は常にコンプレックスを抱いており、特に女性に対して卑屈な態度に出ることがある。
父は障害をもった息子を不憫に思っている。また息子は老い先短い父の願いを叶えてやりたく、マンディンゴ探しに躍起になる。
父にとっては、完璧な身体をもったマンディンゴは不具の息子の代替になる存在だ。
一方、息子にとっては、マンディンゴの子ができれば父親の歓心を得ることができ、女性と関係が結べず、子どもができないかもしれない自身の不甲斐なさを薄めることができると考える。また完璧なマンディンゴの夫婦は、彼がけっして手に入れることができないこの上なく理想的な家族像だ。
さらにマンディンゴ ミードの屈強な肉体と強さにハモンドさえも心奪われる。脚が不自由な彼にとって一つの欠点もないミードの身体は崇拝の対象でさえある。ミードが他の黒人奴隷と賭けのデスマッチを闘っているとき、血だらけで劣勢になるミードを見ていられず、ハモンドは思わず試合中止を叫んだ。それは優しさや博愛精神ではなく、彼の完璧な分身が壊されることを恐れたためだ。ひいてはハモンド自身が傷つけられることを防ごうとした。
上記のことから、この作品では白人奴隷主の身体の不具性/黒人奴隷の身体のたくましさ・美しさがグロテスクなまでに描写される。また妻ブランチは実兄チャールズと近親相姦の関係にあった。つまり肉体的・精神的に、白人=不純/黒人=純粋の構図が浮かび上がる。
人種差別というものは、「純なる我々」を乱す「その他の不純な人々」というレッテル貼りを基本とする。奴隷制以降、アメリカでは連綿と続いてきた思想であるが、この映画は毒々しくその欺瞞性を露呈させている。
そもそも白人垂涎の「マンディンゴ」とは、本来的に部族であるマンディンゴ族を意味する。しかし奴隷市場において誰が出身部族を証明することなどできるだろう。結局、マンディンゴというものさえ外見の判断に過ぎず、言葉だけが独り歩きしているようで内実は空虚だ。
満たされない白人像
息子のハモンドは奴隷農園の跡継ぎであるのに、どこかナイーブだ。しかしそれは彼の優しさに由来するのではない。彼は脚が悪いことから生じるコンプレックスに絡めとられ、常に他人を恐れているのだ。
特に女性に対してその傾向は現れる。友人チャールズに黒人娘エレンを夜の伴にあてがわれたとき、彼は自身の不具の脚がどう見られているか気にする。のちにエレンとお互いに気遣う仲になるが、ハモンドにとって彼女は亡き母の代わりである。幼少期に失った母親の愛情に飢えていた彼は、黒人奴隷の中にそれを見出す。しかしそれは人種という立場の違いに存立する愛情であるから、本質的に欺瞞であり歪んでいる。
当時、たくさんの奴隷を所有する農場経営者は、(アメリカ南部においては)社会的強者であった。なぜなら常に無償の労働力を利用しながら経済作物を収穫・流通できる。さらに奴隷は男女のつがいを作れば増やすことができる。まさに無から有を作り出し、子どもを売れば莫大な現金収入を得られた。
その反面、ハモンドは精神的に鬱屈した弱者として描かれる。本来、強者であるにもかかわらず弱者男性に甘んじている。
その歪みが発露したのは、ラストの姦通をしたミードを煮えたぎる湯に入らせようとするシーンだ。漫画的なまでにグロテスクな刑罰のシーンだが、おそらく中世の刑罰をモチーフにしていると思われる。中世ヨーロッパにおいて、王侯に反逆した犯罪者は、生きたまま内臓を抜かれあり、四肢を裂かれたりするなどの身体的な極刑を科された。
なぜそこまで苛酷な刑罰を科したの?―――それは「神への反逆」と擬制されたからである。
つまりハモンドは、自分が奴隷たちの神であると思い起こさせるため煮え湯の刑を強いたのである。
「ゲット・アウト」との関連性
作中で黒人奴隷は「魂」をもたないと言われる。つまり人間が人間たるゆえんである魂を神によって与えられず、その身体はただの空っぽの入れ物なのだと。それゆえ黒人奴隷の使役が正当化される。魂をもつ白人/魂をもたない黒人。
だからこそウォーレンとハモンドは黒人奴隷の身体に魅入られ、それを自分たちの存在を補完する「道具」だととらえることができる。人間は身体ー精神の相互によって成り立つが、後者を欠く(と考えられている)黒人奴隷はあくまでも自分たちの欲求を満たすためのモノなのである。
このアイデアは2017年 ジョーダン・ピールの監督作品「ゲット・アウト」に継承されている。当作では、年老いた白人の脳を健康な黒人に移植することで若返りを企んだものだ。この白人家族は人種差別主義者であるが、黒人の身体のもつ強靭さ・美しさに心を奪われている。黒人に魂がないと信じるからこそ、自身の魂をその入れ物に移し替えることができる。