【徹底映画考察】ブリタニー・ランズ・ア・マラソン【身体性の回復/祝祭としてのマラソン】

映画考察

※以下ネタバレ注意です。

あらすじ

ニューヨークで暮らすブリタニーは、アラサーに差し掛かろうというのにパーティ三昧の不健康な生活を続けていた。 ある日、病院を訪れた彼女は、医師から血糖値や血圧の数値の高さを指摘され、このままでは生活習慣病は免れないと告げられる。 危機感から近所でジョギングを始めた彼女は、次第に走ることに充実感を覚えるようになり、ランニング仲間とともにニューヨークシティ・マラソンへの出場を決意する。

キャスト

  • ジリアン・ベル :ブリタニー・フォーグラー
  • ミカエラ・ワトキンス:キャサリン
  • ウトカルシュ・アンブドゥカル:ジャーン
  • リル・レル・ハウリー:デメトリウス
  • アリス・リー:グレッチェン

アラサーの女性が身体性を取り戻すまで

本作は主人公ブリタニーが、失った「身体性」を取り戻す物語である。

彼女は連日連夜のパーティ・飲酒・夜更かしによって不健康な状態になっていた。

また彼女はことあるごとに自らを偽ろうとする。たとえば遅刻を上司にとがめられた際、くだらない冗談でけむに巻こうとする。病院では問診票に正直に回答せず、挙句の果てにシッターの面接ではでっち上げの経歴を臆面もなく披露する。

これらはすべて身体のコントロールを失っていることを表す。

まず第一に文字どおり、身体が害されているという意味だ。日々の不養生は明らかにブリタニーに悪影響を及ぼしていて、徹夜明けの彼女の姿は見ていて痛々しいほどだ。

また第二に、彼女は自分でものごとを考えて実行するという機能も衰え始めている。つまりインプット→アウトプットがうまくできていない。それは上記に挙げた彼女のその場しのぎの行動によく表れている。

つまりブリタニーは刹那的な生き方をし、ものごとを深く考えられないのだ。

そんな彼女だが、近所のランニングを始めたことで変化が見え始める。なぜなら走る行為とは、最古の人類から脈々と続く根源的な身体活動であり、なおかつ絶え間ないインプット→アウトプットの連続だからである。

走っているときのことを想像してほしい。屋外を走っている場合、常に目に映る風景は変わり続ける。あそこの曲がり角までくれば〇〇キロぐらい走ったかなどと予測がつく。また自分の身体が出すシグナルに敏感になる。脚が痛くなりそうならフォームを変えよう。呼吸を整えるよう意識する。なにか不調を感じればペース配分を工夫するなど枚挙にいとまがない。

走ることはただ無心に脚を動かしているのではなく、意識的なインプットとアウトプットの繰り返しなのだ。

祝祭としてのマラソン

またストリートを走るという行為は、本質的にアナーキーな行為だ。

都市の街路という本来的にはA地点からB地点への移動経路にすぎないものを、他の目的(たとえば体力をつける)をもって走るということは、それだけで都市の論理(都市が住民にこうあるべきだと提示する型のようなもの)に逆らっている。

そして集大成がマラソンである。マラソンとは本質的に祝祭である。ブリタニーが参加するニューヨークシティマラソンは、人種・年齢・性別・宗教を問わず世界各地から5万人ものランナーが出場する。祭りでは普段できないことが特別に許される。大渋滞が名物のニューヨークの道路がランナーのために開放される。これは思想的にはたいへんにアナーキーである。※余談だが、日本各地にある歩行者天国も60年代学生運動が唱えていた解放区と思想的関連性がある。

祝祭とは、大勢の参加者の中に自分を没入し、そのなかで身体を動かし汗をかき、軽いトランス状態で精神を浄化させるイベントだ。

それは道幅を埋め尽くさんばかりランナーの中で、顔を上気させて走るブリタニーの姿に重ならないだろうか。そしておそらくはある時点でランナーズハイを迎え、憑き物が落ちたような表情をしながらゴール地点に駆け込む彼女の姿を思い出さざるをえない。

タイトルとURLをコピーしました