ダニエルはどのような人間なのか、一見するとわかりづらい。それは石油という経済的利益を貪欲に追い求める一方、家族(もしくは疑似家族)を所望している。いずれの欲望にも共通するのは強烈な支配欲だ。本稿はダニエルの支配欲がどこからやってくるのかを性欲の観点から考察していこう。
なぜ女性が登場しないのか
まず前提条件として、ダニエルは性的不能者である。
この映画は不自然なまでに女性が描かれない。イーライの妹マリア(のちにH・Wの妻となる)は例外だが、しょせんダニエルにとっては女性ではなく子どもだ。
劇中に登場する人物はすべてダニエルの欲望の対象である。ダニエルは他人に率直に欲望をぶつけ、意のままにしようとする。それぞれに向けられる欲望の種類が異なる。H・Wは父性を発揮すべき子であり、かつビジネスの道具だ。偽弟ヘンリーは家族に対する支配欲。イーライは嫌悪し貶めるべき宗教の代行者だ(だから攻撃する)。
女性が性欲の対象とはなりえない。それはダニエルが性的に不能であることを示唆している。ヘンリーと酒場にいるシーンが印象的だ。
しかしこれは性欲がないということにはならない。むしろ厄介なことに性欲はダニエルの奥深くで抑制されている。
なぜダニエルが不能なのかは描かれない。生まれつきそのような性向なのか、それとも山師として精神的・肉体的に過酷な状況に身を置くことでそうなったのか。
性欲の代償としての石油堀り
フロイトいわく、抑制された欲求は別のかたちで表出する。
ダニエルにとってそれは石油を掘るという行為だ。
採掘を描くシーンには性的なメタファーが散りばめられている。平原にそびえ立つ櫓は勃起した男性器を表す。また巨大な鉄の杭で岩盤を貫くのはレイプだ。ダニエルは自身の肉体で性欲を発散できないかわりに、石油を掘ることでやるせない欲求を満たそうとする。
したがって石油堀りは金銭や名声を獲得する目的でない、性欲という一次欲求を満たす行為だ(マズローの欲求階層説)。原始的欲求を満たすためダニエルは必死だ。どんな手を使っても止められない。ダニエルはできることならば地球上の石油を吸い上げるよう突き動かされている。
これが異常なまでに石油に固執する真の理由だ。
血を残したい欲求
タイトルが示すように石油とは血だ。大地を傷つけることで地中からどす黒い血が噴き出す。
女性と性的関係が結べないダニエルは子孫を残すことができない。自分の血を子に継げないかれは、自らの血である石油をあまねく世間に広めようとする。ダニエルの血はパイプラインで港に運ばれ、そこから船で全国の需要地に散らばっていく。
ダニエルは「血」の観念に妄執的にとらわれている。弟になりすましたヘンリーは聖なる血を偽った罪びとだ。だから処刑した。
イーライと血
ダニエル同様、イーライも性欲を抑制されている。なぜならかれは聖職者だからだ(ただしプロテスタントなので妻帯はできる)。
イーライは性欲の代償行為として、カリスマ的な伝道者になろうとする。かれも「血」の考えに憑りつかれている。福音(=神の血)をひとりでも多くの人に分け与えようとし、家族である信者を増やし家庭たる教会を拡大するのが原始的欲求に置き換わる。その欲望を満たすためなら、不信心者であるダニエルと結託するのもいとわない。
異なる血どうしの戦い
終盤、ダニエルの屋敷でふたりが対峙するのは、血と血の戦いだ。
ダニエルはひそかにイーライの血を盗み飲んでいたと告白(かの有名な”I drink your milkshake”)。勝ち誇った顔をする。
本作は血の描写(文字どおり流血という意味で)を執拗に避けてきた。採掘中の事故シーンもそうだ。死者から流れ出ているはずの血は、全身を覆いつくす石油と同化し、ただどす黒く映し出される。
イーライのつぶされた頭から赤い血がみるみる広がる。はじめて描かれた流血だ。これをラストに見せることでこの映画は血を描いたものだと観る者に強烈に印象づける。