本作はさまざまな解説が当てはまる、ひじょうに懐の深い映画だ。
今回はダニエルという男は神に類するものではないかという視点で考察を深めてみよう。
あらすじ
石油発掘ブームに沸く20世紀初頭のカリフォルニア。 山師のダニエル・プレインビューは、とある町に石油の埋蔵地があるという情報を得る。 息子のH・Wとともに同地の土地買収と採掘に繰り出したダニエルは異様なまでの欲望で富と権力を手にしていく。
キャスト
- ダニエル・プレインヴュー – ダニエル・デイ=ルイス
- H・W・プレインヴュー – ディロン・フレイジャー
- ポール・サンデー / イーライ・サンデー – ポール・ダノ
- メアリー・サンデー – シドニー・マカリスター
- アベル・サンデー – デイビッド・ウィリス
- ヘンリー – ケヴィン・J・オコナー
アメリカの辺境で対立する神々
まずはじめに提起しておきたいのは、アメリカ資本主義社会においてダニエルは神なのである。
なぜなら彼は休むことを知らない勤勉家で、新興の金持ちにありがちな浪費や色事におぼれることもなく、ただひたすらに自身の事業の拡大に邁進しているからだ。ある油田で得た利益をまた別の土地に投資(投機)することで、拡大と繁栄の無限のサイクルを回している。
これこそアメリカの起業家が過去から現在まで信仰の対象とする神の姿である。
自身を神とするダニエルはそれゆえに宗教から距離を置く。自分以外の神が存在するなどとはとうてい認められないからだ。
その姿勢はイーライとの関係性において強く表れる。ダニエルが採油事業を円滑に進めるため、教会のカリスマであるイーライを利用する。その反面、採掘開始のセレモニーでかれを無視し、ないがしろするなど、キリスト教の介入を極端に嫌がる。
またイーライの妹は祈りを怠けたとき父に虐待されていると耳にする。ダニエルは彼女を助ける。作中、彼が純粋な善意から他人を助けたことはない。すなわち単にかわいそうだから助けたのではない。彼女を助けたことで、信仰に篤い父を打ち負かしたと考える。ダニエルとイーライ一家の関係性はつねに、資本主義の神【ダニエル】VSキリスト教の神【の使者であるイーライ】の対立構造。
ところがバンディ家の土地を手に入れるためにダニエルはイーライの洗礼を受けなければならなくなる。洗礼のシーン、ダニエルは自分に言い聞かせるように何度も「これは配管敷設のためだ・・・」と独りごつが、この屈辱は耐えられない。このシーンで、上記の2種類の神の戦いに決着がつく。洗礼を受けることで神の子となったダニエルは負けた。ダニエルはみずからの神性を完全に失ったのだ。
それ以降のダニエルは精彩を欠く。レストランで石油のビジネスマンに言いがかりをつけたり、豪邸で酒におぼれ放蕩したり往時の面影がない。あれほど優秀なビジネスマンだった男はなぜこうも落ちぶれたのか?それはダニエルが神でなくなったからである。彼は文字どおり地に堕ちた。
神殺しと復活の儀式
ある日、イーライがやってきた。カリスマ伝道者として全米に布教活動を広げていた彼だが、近年の恐慌のせいで経済的苦境に陥っていた。分け前がほしくて、ダニエルに石油採掘を申し出る。採掘の条件として、イーライに「自分は偽預言者で、信仰はデタラメだ」と告白させる。これはダニエルの洗礼をなかったことにする魔法の言葉だ。それゆえこの言葉を聞いたダニエルは失った神性を取り戻し、水を得た魚のように生き生きする。
このシークエンスは、一見すると洗礼のときにダニエルがさせられたことをダニエルに強いる意趣返しのシーンのようにも見える。しかし真の意味は、キリスト教の神を否定することでダニエルが神として再び君臨する、神殺しと復活の光景なのだ。
そしてすべてを否定されたイーライを殺害する。これをもってダニエルの復活の儀式は完了した。だからダニエルは「終わった」とセリフを残すのだ。
蛇足
復活したダニエルはどうなったのだろうか?想像するほかないが、また石油屋のレジェンドとしてカムバックしたのではないだろうか。あれほどの富豪の力をもってしたら、イーライ殺害もたやすく隠蔽できそうだ。
少なくともダニエルの精神は現代資本主義の中でより強靭で先鋭化しているように思える。