あらすじ
2018年、アドニスはかつての宿敵コンランに雪辱を果たし、チャンピオンとして引退した。以来、リトル・デュークと共に後進のボクサーを育てつつ、家族との時間を大切にする生活を送っていた。ある日、アドニスの幼馴染で兄貴分でもあったデイムが訪ねてくる。彼は青年時代、将来を期待されたアマチュアボクサーだったが、過去のある事件によって長期間刑務所に収監されていた。デイムはボクシングで再起を図りたかった。年齢的に難しい面もあるが、熱意に押されたアドニスは彼をジムへと誘う。
キャスト
- アドニス・クリード:マイケル・B・ジョーダン
- ビアンカ・クリード:テッサ・トンプソン
- “ダイヤモンド” デイム・アンダーソン:ジョナサン・メジャース
- リトル・デューク:ウッド・ハリス
- ヴィクター・ドラゴ:フロリアン・ムンテアヌ
- アマーラ・クリード:ミラ・デイヴィス=ケント
ロッキーシリーズとはなにか?
シリーズものは過去作との関連を抜きにしては語れない。きっと製作者も過去との関連を重視して新作を制作しているからだ(むしろそうであってほしい)。そのため前置きが長くなるが、初代ロッキーから直近までの流れをおさらいしつつ、その思想的つながりを考察しようと思う。
ロッキーシリーズ、いわゆる正史5作品、リブート(ロッキーザファイナル)、本作含めたスピンオフのクリードシリーズ3作品はすべて持つ者/持たざる者の闘争を、義理人情をからめ、ボクシングの舞台装置で表現したものである。
持つ/持たないという属性は(本作のなかでは)流動的だ。当初ロッキー・バルボアはヤクザの使い走りをするチンピラとして描かれる。対してアポロは泣く子も黙る世界チャンピオン。1作目のアポロとの対戦を足がかりにロッキーは社会階層の階段を昇り始める。これはボクシングの勝敗で明確に描かれる。またロッキーの服装・食事・生活環境・メディア対応が変化する。要はセレブリティへの変身だ。
持つものロッキーに対して、挑戦者はつぎのような批判を浴びせる。「お前は今まで弱い相手としかマッチメイクされてなかった」(ロッキー3のクラバー)。またロッキー4のドラゴはソ連崩壊が表すように経済的弱者の象徴だ。シリーズが進むにつれロッキーは矢面に立たされる存在になる。
当初のロッキーは「巻き込まれ型主人公」だ。パブリシティのため、アメリカンドリームをリングで表現したいアポロの、なかば強引な誘いにのって試合に挑んだのが物語の始まりだ。
2作目は微妙だが、3作目から完全にみずからの意欲でロッキーはマッチメイクに臨む。持つ者は自由な意志を手に入れる。教育論などで取りざたされるように経済的豊かさと意思決定の多様さは比例する。そして金のために試合をすることはなくなる。試合に挑む動機づけは、自己の超克(ロッキー3)、友の敵討ち(ロッキー4)といったように非金銭的だ。
アドニスは何者か
それでは、もともと持つ者であるアドニスはどうだろうか?
アドニスの出自はスピンオフ1作目の「クリード チャンプを継ぐ男」で明かされる。いまは亡きアポロの私生児であるアドニスは、アポロの妻メアリー・アンに養子として育てられる。高等教育を受けホワイトカラーとして働くアドニスは、アメリカ社会ではまごうことなき勝ち組だ。またボクシング界ではチャンピオン アポロの子という優等血統である。
「チャンプを継ぐもの」において、アドニスの最大の敵は自身の「持つ者」というレッテルである。試合結果は王者コンランの判定勝ちに終わるが、アドニスは親の七光りを超えた実力の承認という最大の賛辞を得る。
次作「クリード 炎を継ぐ者」は、ロッキーに負けを喫したことで名誉も財産も失ったイワン・ドラゴの息子ヴィクター・ドラゴの挑戦を受ける。本作はわかりやすい持つ者/持たざる者の対決関係だ。
今作「過去の逆襲」は一見すると「炎を継ぐ者」の焼き直しのように思える。デイムも同じく持たざる者で、みずからが成り上がるにはアドニスを倒さなければならないと(本人は)思っているからだ。
では前作と今作の違いはなにか?その答えは挑戦者のもつ物語の説得力だ。いいかえればデイムは本作のアンチヒーローとしてアドニスと対決すべき強烈な動機づけをもっている。ドラゴ親子の動機よりも、デイムのそれはよりパーソナルで因縁めいている。
物語vs物語
チャベスを破った後のデイムは一躍アイドルの扱いだ。刑務所帰りでまともな仕事にもつけない黒人(しかもそれほど若くない)が一夜にしてシンデレラマンになった。底辺から何段飛びしたかわからないほどのサクセスストーリー。
スポーツファンはなにゆえにある選手を好きになるのか。それはテクニックや身体的な強さ、思想などさまざまな理由があるが、「物語」の魅力も無視できない。
「ブレイキングダウン」を想像してほしい。おそらくファンは選手の技巧や身体性ではなく、その選手がバックグラウンドとしてもつ物語性に惹かれるのではないだろうか。例えば不良の成り上がりストーリー、ある選手と別の選手のあいだの因縁・・・
デイムはヴィランでありアイドルなのだ。
対して、アドニス個人の物語性はデイムのそれよりも弱弱しいように思える。なぜなら彼は引退した身であり、ボクサーとしての物語に終止符をうっているからだ。またデイムとの因縁を明かすことは、アドニスの古傷を開くことにもなる。
ではなぜアドニスは勝つことができたのか?それは月並みな言い方だが、アドニスは家族全体の物語を背負っているからだ。物語性というのはそれが包含する構成員の数が多ければ多いほどより強固なものになる。たとえば宗教団体、企業カルチャー、国家、これらがもつ思想の堅牢さと求心力を想像してほしい。
ロッキーシリーズでは子弟と家族の絆を初代から描いてきた。その意味では本作もたしかにシリーズの血脈に依拠している。