本作のテーマは愛と寛容だ。ではなぜ製作者は移民家族の姿を通じてそのメッセージを伝えたかったのだろうか?
今回は家族・言語・インターネットをキーワードに深遠なエブエブ世界を切り取ってみよう。
21世紀の移民家族像
かの名作「ゴッドファーザー」はイタリア系移民を2世代にわたって描いた。ほかにも「ミナリ」、「イン・アメリカ~三つの小さな願いごと~」、「インザハイツ」など、アメリカ社会のニューカマーとしての移民一家を取り上げたものがある。どの作品も共通するのは家族が一枚岩として異国で懸命に生きていく姿だ。
エブエブの描く家族像はそれとは異なる。エブリンとウェイモンドの移民1世世代の立場にしてみれば、チャンスを求めてアメリカにやってきて、コインランドリーの商売を始めた。毎日仕事に忙殺されているが、いまや一国一城の主。コインランドリー・洗濯業は典型的な中華系移民の商売。ここだけを見れば移民一世の努力に満ちたサクセスストーリーの色合いだ。
しかしそこに移民2世のジョイの目から見れば状況は一変する。両親の英語はおぼつかないし、国税庁でちゃんとやり取りできるか心配だ。母親は自分がレズビアンなのを恥じているだろう。さらに保守的な祖父ゴンゴンが来るなんて余計話がややこしくなる・・・
世代によって考え方や価値観が変わるのは当たり前だ。非移民の家族だって同じ。しかし世間のイメージはアジア系移民はリベラルで上昇志向があって教育に熱心だ、そんなステレオタイプで語られることが多い。コロナ禍のアメリカでアジア系住民が精神的肉体的差別を受けたのはこういったイメージを妬まれたことに由来する。
ありえた自分が生きるマルチバース世界、さらに行動によって無数に枝分かれする未来。それだけではない。今を生きる家族の中にさえ、考え方の違いがあり、それによるディスコミュニケーションがあるのだ。
言語と思想
本作はマルチバース(多元宇宙論)を取り上げた映画だが、エブリン一家が使う言語もまたマルチだ。
エブリンと父ゴンゴンは北京語(中国の標準語)を話し、ウェイモンドは広東語話者だ。ジョイは主に英語を話し、彼女の中国語は年々下手になっている。これを多様性ととるか、バベルの塔の逸話のように混乱ととるか。
言語は思考を規定する、というのはフランス構造主義の考えだ。たとえばあいまいな表現が多い日本語の話者は、あいまいさの要素が思考に組み込まれる。言語は思考に先立つ。
ゴンゴン-エブリン-ジョイ、それぞれが考え方に違いがあるのは年齢の差ともいえるだろうが、使用する言語も少なからず影響しているだろう。
マルチユニバース=インターネット
マルチバースの世界はインターネットの仕組みに通じる。エブリンはいつでもどこでも、別次元のエブリンとつながる(能力を付加する)。
なぜリンクする際、「突飛な行動」をしなければならないのか?この突飛な行動とは、①一見するとバカみたいな行為で、②なにかしらの身体性を伴う。たとえばリップクリームを食べたり、紙の端で指を切ったり・・・といった具合だ。
自分(もしくは自分が住む社会)ではバカみたいと思われることでも、他の文化圏ではまったく異なる意味をもつ場合がある。つまり既存の価値観にとらわれず、一歩前に踏み出してみよう。そうすればなにか得られる(make difference)、というわけだ。また身体性は「身銭を切る」ということ。痛みや恥を感じるかもしれない、しかし変化には代償が必要だ。
わたしたちがインターネットを使うとき、既存の価値観を捨て、今あるものを失うことも厭わないなどと考えるだろうか。たいへんにストイックな姿勢だ。
お気楽にインターネットを使うことにはさまざまな弊害が発生する。たとえば他人の炎上に便乗し上から目線で罵詈雑言を浴びせる。自分の考えが正しいと信じるあまり、他の意見はいっさい無視する(エコーチャンバー現象)。
他ユニバースの自分から能力をインプットする際、イヤホンが反応しボタンを押さなければならない。これはネット社会でないがしろにされつつあること、「相手の意見に耳を傾ける」を表現している。
インターネットの負の側面があらわになり、なおかつ止められない現代、「突飛な行動」をもってインターネットを利用する。これはダニエルズが示唆する最新のネットリテラシーである。