【徹底映画考察】アリスのままで【言語学・演劇とアルツハイマー/不思議の国のアリスとの関係性】

映画考察

以下、ネタバレ注意です。

あらすじ

コロンビア大学の言語学者アリス・ハウランドは、医師である夫ジョンと3人の子どもと充実した人生を送っていた。しかしある日突然、アリスは言葉に詰まるようになり、通い慣れたはずの大学キャンパスで道に迷うなどの症状が出始めた。アリスは医師から若年性アルツハイマー病と診断される。アリスは次第に病状が進んでいくにつれ、記憶や言葉を思い出せなくなっていく。また同時に家族との関係性も変化していく。

2014年 アメリカ リチャード・グラツァー監督作品

キャスト

  • アリス・ハウランド:ジュリアン・ムーア
  • ジョン・ハウランド – アレック・ボールドウィン
  • リディア・ハウランド:クリステン・スチュワート
  • アナ・ハウランド:ケイト・ボスワース
  • トム・ハウランド:ハンター・パリッシュ

言語学とアルツハイマー

アリスは実績豊富な言語学者だ。

言わずもがな言語学とは人間の言葉を研究する学問であるが、言葉とは過去―現在―未来をつなぐものだ。文字が存在しない古代において、共同体の歴史、神話、儀式、知識といった情報はすべて口伝えによって継承されてきた。また現在でも語り部によって、戦争や災害の体験、伝承は受け継がれている。

また言語学とは神の行いを研究する学問である。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書1章)

この章では神の言葉によってあらゆるものは造られた、と述べる。つまり聖書によれば、言葉によってわれわれが住む地球、そして全宇宙創造されたと説く。

つまりアリスが信心深いか否かに関わらず、彼女の研究は神の理(ことわり)を説明するものなのだ。

※これは「神がかり的」な見方ではなく、西洋を起源とする学問(自然科学を含む)は神の行った業を解明しよとする探求とともに成り立った歴史的経緯がある。たとえば、物理学は万物の作用を、また天文学は天体の運行を対象とするが、それぞれ神が創り出した法則を人間の観察によって説明しようとしたものだ。

アリスはアルツハイマーの進行によって言葉を失っていく。忘れていく言葉には脈絡はない。突如としてある言葉が失われ、そこにはただぽっかりと穴が開く。先に述べたように言語は時空をつなぐ媒体であるから、言葉を失ったアリスは過去と未来を奪われる。彼女は否応なく「現在」のみに生きることを強いられる。それは学問研究という過去の事実を掘り起こし系統立て、未来に成果を残していく事情に人生をかけていたアリスにとってはこの上ない苦しみだ。

哲学者ウィトゲンシュタインは「人間の思考の限界は言語の限界に規定される」と述べた。つまり徐々に言語を失っていくアリスは、同時に自由な思考も奪われていくのだ。

初老のアリスにとって、「過去」とはティーンエージャーとは比べものにならないほどの膨大な時間の積み重ねだ。彼女のすべてが詰まっているといっても過言ではない。それは彼女の家に所狭しと掛けられた写真、また冒頭の学術講演のトピック「過去時制」にも象徴されている。

演劇とアルツハイマー

アリスの彼女はそれぞれ異なる分野に進んでいる。夫ジョンは研究系の医師、長女アナは弁護士、次女リディアは女優、長男トムは臨床医だ。

それぞれの職業とストーリーの結末には密接な関連がある。

終盤、ジョンは州外の病院への栄転が決まり、アリスを残し家を出る。リディアはLAで劇団活動をしていたが、実家に戻り、病状の進んだアリスの看病を一手に担う。

医学は人体の構造を研究し、疾病を治癒することを存在意義とする。他方、法律学は人間社会を規定する秩序を対象とする学問だ。いずれにも共通するのは人間それ自体、加えて外界との作用を論理立てて整理すること。

アリスはアルツハイマーによって、自分自身でも理解できない支離滅裂な行動をする。また以前と同じような正常な人間関係を結びにくくなっている。それゆえ夫と兄妹はその職業によって規定された思考がアリスの行動となじまない。論理(システム)の世界で生きている彼らは、非論理の世界にいるアリスとは隔絶しているのだ。

一方、リディアは献身的にアリスに接する。彼女の思考がもっともよく表れているのは、芝居が終わった後の交流会のシーンだ。リディアが自分の娘であることがわからなくなったアリスは、まるで初めて会うかのようにリディアに接する。リディアは一瞬ぞっとした表情を浮かべるもアリスを否定せず調子を合わせる。割って入り、事実を指摘するアナとは正反対の態度だ。

これは彼女が身を置く演劇の世界の延長だ。演劇とは場を創造する人間の営みである。書かれた脚本が描く世界を役者と舞台装置を用いて「現在」に生み出す。演劇は映画や小説と違い、今ここにある世界を映し出す試みだ。

この点で今を生きざるをえないアリスとたいへん相性が良い。

芝居において、役割を与えられた演者は舞台上で擬制の人間関係を築く。役者であるリディアは、リディアも自分自身さえも誰かわからなくなったアリスを変わらず母として受け入れる。これは役者活動に彼身を捧げてきた彼女だからできることであり、演劇のもつ効用だ。アリスはつねづね大学に戻るようリディアを説得してきたが、それを拒んできたことがアリスを救うことにつながる。

またふたりの兄弟がアルツハイマーの遺伝子検査を受けたのに対して、リディアは検査を拒否した。これも彼女の現在を生きることに対する強い思いが垣間見える。

不思議の国のアリスとの関連性

英語圏文学でアリスと言えば、誰しもルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を思い浮かべるだろう。

アリスつながりで両作に共通点を見出してみよう。

「不思議の国のアリス」において、主人公アリスがおかれるのは意味不明でナンセンスな世界だ。なぜここにいるのかわからない。この世界の住人(ウサギや芋虫、ネズミ)はアリスに状況を説明することなしにただ一方的に自分の言いたいことをまくし立てるだけだ。アリスは一貫してこの不思議な世界で居場所のなさ、不安を感じている。

これを「アリスのままで」のアリスに置き換えると、アルツハイマーを患ったアリスから見る世界と、他人から見るアリスの姿と一致する。

つまり思考がとぎれとぎれとなったアリスは外界を理解するのが難しい(人が誰かわからない、道に迷う)。他方、他人の目からはアリスは奇妙な振る舞いをしているように見える。

一見すると理解しがたい世界にいるアリスと現実を架橋するのが、演技者であるリディアなのだ。

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